■ Back Number  ■ 2002年 4月 No.110
 
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【新しい家族のあり方】

〜介護家族を考える〜
 先日、私が理事長を勤めるNPO法人が運営する姫路のグループホームへ訪問し、利用者の家族との懇談会に参加してきました。 グループホームというのは、痴呆対応型居宅サービスの一形態で、少人数の老人(数人から9人くらい)がスタッフの支援を受けながら、大きめの住宅で共同生活を送るもの。家庭的な雰囲気の中で暮らせるので痴呆老人のケアに適していると言われている。
 また、この施設では、デイサービスといって介護保険指定の痴呆老人専用の通所介護事業も併設して行っている。
 現在、この施設では、グループホームに12人ほど、デイサービスに4,5人ほどの利用がある。懇談会に参加した家族は大半はそのグループホームの家族。

介護家族の苦労は想像を絶する
 懇談会で、まず家族の感想を求めるとほとんどすべての人が、自分たちの老人に対する職員の苦労を思いやり、一様に申し訳ないと語る。最初、それは社交儀礼かと聞いていましたが、何人もの人が口々に切々と申し訳なさを言うにつけ。これは何かあるのではないかと思われました。
 それは、利用者家族がこのグループホームを利用するに至った動機を聞いてわかりました。
 いろいろな事例がありましたが、要約すると大半は痴呆が始まった当該老人の家族、それもつれあいか娘のケースが多いのですが、不思議と共通しているのは、肉親ゆえなのでしょうか、本人と接すると罵倒されたり、嫌みを言われることが多く、態度が悪いというのです。大抵、喧嘩となり、それがひどい口論になると言います。中には、そういう状態になることが心理的に怖くなって、動機や息切れがひどくなり、救急車で運ばれた人もいました。それでも、何とか家族でがんばってみようと努力したそうですが、体力的にも精神的にも限界を迎えていたところ、グループホームが近所にできることを知り、申し込んだといいます。
 この老人の場合、他人に対しては愛想が良く、施設に入っても穏やかに生活しているので、家族はとても安心して感謝しているといいます。
 また、別の例では、長期療養が必要となり(いわゆる社会的入院)、特別養護老人施設などを利用していたが、隣のベットには、明日をも知れぬ人がいたり、実際に同室の人が次々亡くなったりして、本人よりも訪問にくる家族の方がいたたまれず、どうしようかと思っていたところに、この施設オープンの話を聞いて見学し、入居を決めたといいます。 そして、家族の人々が一様に職員に対して感謝しているのは、実は家族で介護していたときの経験が強烈で、おそらく自分たちが受けた苦労と同じことを職員の人に迷惑かけているのだろうと自然に思えてならないことからくる言葉だったのです。
 逆に言うと、家族だけでささえるということはそれだけ壮絶だったとも言えるわけです。

家族の苦悩
 家族にとっては、自分たちの親だから、どんなに口げんかしてもささえていこうと考えるようです。しかも、土地によっては親類の目や近所の目も気にしなくてはなりません。ところが家の中では、自分たちに対して、その親が罵詈雑言のパンチを浴びせられます。まだ、自分に向かって言われるのはいいのですが、せっかく一緒になって支えてくれる夫や妻に対してまで、その矛先が向かい、ついに精神的に耐えられないところまで追いつめられたといいます。
 そういう経験をされたあとで、施設に入居してもらい、本人も穏やかに生活し、自分たちも平穏な生活が戻り、とてもありがたいと口々に述べます。また、家族たちは、頻繁に施設を訪問して昼間は、よく顔を合わせ折り、家にいたときとは見違えるような姿に驚いたりもしているそうです。
 では、その後の家族は幸せかというと、まだまだ問題がありました。本人自身のトラウマです。いい施設に入居してもらってよかった、これで本人のためにも家族のためにもなったんだと理屈で理解できても、親類や近所がやっぱり力つきて施設にいれたんだと心ない噂をしたり、もしくは、実際は誰もそんなことを言っていないのに本人自身の心の中で言われているような強迫観念が芽生えるというのです。

新しい家族のあり方
 現在の社会では、社会生活の多様化から家族全員が入れ替わり家の中にいるということは考えられず、いきおい専業主婦や実の娘に介護のしわ寄せがきてしまい、家族だけで痴呆老人を介護することはもはや限界的であり、家庭崩壊の元といえる状況です。ゆえに、一定の状況まできたら、施設を利用することが本人にも家族のためにもなることが段々わかってきたのですが、伝統的な家族のあり方という考え方の方がついてきていません。
 長年、あくせく働いて、やっといい年になって自分の家でのんびり暮らせるようになったのに、また痴呆になったからと施設に入って知らない人と共同生活をしなければならない、それでいいのか?重要な問題です。また、施設に入った老人と家にいる家族とどうコミュニケーションをとるのか、ということは、家族とは家という不動産のしばりという太古よりの観念から解き放たれて新しい発想をもちこまなければいけないのではないかという問題もあります。
 ハイテクを駆使すれば、物理的な部分は解決できそうですが、日本人の心の問題、家族の問題をどう考えるか、極めて哲学的なテーマがそこにあります。私を含めて、このレポートの読者にとっても、すぐに現実的になりうる身の上の人が多いわけで、決して他人事のテーマではないと思います。しかし、また一方、その場で議論してすぐに答えの出るテーマでもありません。おそらく、これから数年の間、日本人全体で悩み、議論していかなければならないテーマなのでしょう。
 ところでこの施設では、前にレポートでご紹介して70歳前のご婦人が職員として嬉々として働いておられます。経歴からするとこれまで福祉関連とは縁がなかったのですが、自分が役に立てるのが嬉しいと率先して働いておられ、施設のすばらしいムードメーカーとなっておられます。また、デイの方では今年新卒のM君が担当していますが、彼もまた老人と一緒になって感動したり喜んだりできるこの仕事が楽しくてしょうがないという、都会では絶滅してしまったような理想的な青年です。このような人々に接しますと、まだまだ日本は捨てた物ではないと安心いたします。

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